友情努力勝利は最近若者の中では友情個性勝利に変わってきているという話を小耳に挟んだ。
努力についての話をしよう。
そもそもこの三原則自体ジャンプでは特に重要視されていない。努力をまじめに書くのはネタにならないらしい。私もそう思う。
個性といえば僕はヒーローアカデミアでもメインテーマとなっているので割と的を得た表現であると言えるだろう。
とは言っても今回この話の真偽を問うつもりはない。
努力という言葉に見え隠れする美意識こそが人生におけるガンであり、この言葉が賞賛されたのは時間をかけ労力を払えば社会が成長した時代のことである。
そこから時代に合わせたアップデートを行わず危険な美意識を振りかざす人間からは即時距離をとったほうがいい。
大人子供に関わらず勝つために必要なのは勝つために必要な知識や行動であり苦労するかどうかは関係がない。
ところが努力するだけ時間をかけるだけがむしゃらに労力をかけるだけで結果が出た時代があった事で事で、努力する事自体ことは美しいという価値観が無意識に備わってしまった。そこから逆説的に努力しない事が良くない事であるという非論理的な理屈がまかり通ってしまっている。
嫌儲と同様のパターンで自分の中のイメージが客観的な事実であるように振る舞うタイプの人間である。
これからの時代に必要なことは結果を出すために考える事、そして行動する事である。
ところで一般的な日本人は出る杭を嫌う。そして行動しない人間は大抵において完璧主義である。
そうして完成するのは命令すれば嬉々として動き、帰りの満員電車で愚痴をいい勝手にストレスを発散しがむしゃらに必要のない苦労を努力として有り難がる扱いやすい奴隷だ。いわゆる社畜である。
完璧でなければ行動ができる。
行動をすれば結果が伴う。伴った結果に応じて
行動すれば大抵は失敗する。
失敗すれば別の行動をとればよい。
これを一言で表すと最適化である。
今後の時代において重要なのはこの最適化サイクルをいかに早く回し始めるかである。
回さない人間はずっと回せないままだ。
この最適化を努力というのであれば人生において努力は必要だと断言できるがいまどき努力という言葉を口に出す人間においてそうでない場合が大半だろう。
努力という言葉をイメージするとき肉体的な苦痛や時間の消費を伴う事が大半だ。
そこにあるカラクリは要するに何かを失ったのだから何かを得て当然だという感情論である。
こういう人間の機序はどうなっているのか。
端的にいうと自分の感情と物事の因果を切り分けられない性質を持っているのだ。
これは自分の失った事で苦しい、悲しいという感情と、社会で起こる物理的な出来事に何の因果もない事が認識できないことによって起こる。周囲から見れば当然の事として理解できるが、自己と社会の境界の認知が曖昧なまま防衛機制を起こしてしまっている事が原因だ。
こういう人間は高額な商品などにおいて防衛本能が働くので騙すのが最も容易い。思い当たる場合は我が身を振り返ったほうがいいだろう。もっとも既に大人であれば大抵の場合、もう変化できないので手遅れであるが。
ちなみにこれは感情こそが人生において最優先、という感情のために動く人間を否定するわけではない。自分の感情を満たすために理性的・論理的に行動できるいわゆるデキる人間だって存在する。
ちなみに頑張れという言葉についても同じ事が言えると付け加えておく。